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| 【映画】ガス・ヴァン・サントの新作『パラノイドパーク』を観たよ!(ロバート・コペンハーゲン)2008.04.15 23:54 |
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ガス・ヴァン・サントの新作『パラノイドパーク』は2度観るだけの価値がある映画だった。パンフレットも購入してしまったし。眠くなる映画がダメな映画かというと、必ずしもそうではないということがこの映画でも証明される形となった。眠くてもいい映画はたくさんある。眠くなければもっといい気もするけれど、そんな贅沢はいっていられないのだ。眠くなる表現でしか達成しえない高みだってある。この映画を観れば、それが嘘じゃないということがきっとわかるはずだ。劇場で1度は寝てしまった僕がいうのだから間違いない……っていうのも、よくわからない理屈だけど。
主人公・アレックスの揺れ動く気持ちがそのまま表現される映像。これが実に美しい。脆くて不安定で、なんていうのか、英語でいうと「fragile」っていうのか。日常が圧倒的ななにかによって完全に崩壊してしまう、その一歩手前。それを、こんな風に撮って/繋いで/音楽を寄り添わせて、作品に仕上げることのできる監督はガス・ヴァン・サントしかいない。大して彼の作品を観ているわけでもない僕でも、こればかりは断言できる。ガス・ヴァン・サントにしか、こんな映画撮れない。
沈鬱なはずのシーンにあえて明るい音楽を添える手法が堪らない。バニラアイスの表面をスプーンで削っていくみたいにして、わずかな痛みもないままに、胸の内を少しずつ抉られていく。そんな感覚がある。さらに、この映画は時系列をバラバラにして構成されていて、繰り返しスクリーンに映し出されるシーンがいくつかあるのだが、そこにはその都度新たな思いが重なって、前とは違う光景が広がることになる。自分を取り巻く現実を目の前にし、気持ちの整理をつけるべく手紙を書き続けるアレックスの作業と同調するようにして、過ぎ去った時間が「重層的に」観る者たちに迫り来る。しかし、それも無痛だ。自らの痛みとするには遠すぎる。そういう距離感がスクリーンと観客の間にはある。共感はしない。
それは、ガス・ヴァン・サントがこの映画から巧妙に「感情の芯」を抜いているからだと思う。「人を殺した」という現実を前にした若者を描くのに、彼の中に渦巻く感情を露骨に描いてしまっては、「人を殺した」という現実は彼というフィルターを通して歪んでしまうに違いない。彼の心の動きは撮り方や繋ぎ方といった表面的な部分が担っている(それで充分だし、そういった部分こそがこの映画の大きな魅力だ)。音楽によってアレックスの感情を積極的に表現しようという意図は見当たらないし、ストーリーやセリフによってそれを際立たせるというわけでもない(むしろそうした効果は致命的に邪魔なのである)。そのようにして高ぶる感情を表現する描写を控えた中で、ただ「人を殺した」若者の現実が、彼自身の心のゆらめきと共に観客に静かに見せつけられる。それこそが、スクリーンと観客との距離感の正体なのではなかろうか。
この映画は無痛ではあるが、それゆえに残酷な現実はその残酷さを留め、観客はそれから目を逸らすことができない。アレックスは映画の最後に、授業中の教室で深く目を閉じ、教師の呼び掛けにも応答しない。もしかするとアレックスがそもそも高ぶらずにいられるのは、彼が自分の心の中の「パラノイドパーク」に逃げ込んでいるからなのかもしれない。そんなことを感じさせるラストだ。
目を逸らしてはいけない。観客である僕は彼にそう声を掛けなければならない。そして、それはまた、僕自身にも……。
