ガス・ヴァン・サントの新作『パラノイドパーク』は2度観るだけの価値がある映画だった。パンフレットも購入してしまったし。眠くなる映画がダメな映画かというと、必ずしもそうではないということがこの映画でも証明される形となった。眠くてもいい映画はたくさんある。眠くなければもっといい気もするけれど、そんな贅沢はいっていられないのだ。眠くなる表現でしか達成しえない高みだってある。この映画を観れば、それが嘘じゃないということがきっとわかるはずだ。劇場で1度は寝てしまった僕がいうのだから間違いない……っていうのも、よくわからない理屈だけど。

主人公・アレックスの揺れ動く気持ちがそのまま表現される映像。これが実に美しい。脆くて不安定で、なんていうのか、英語でいうと「fragile」っていうのか。日常が圧倒的ななにかによって完全に崩壊してしまう、その一歩手前。それを、こんな風に撮って/繋いで/音楽を寄り添わせて、作品に仕上げることのできる監督はガス・ヴァン・サントしかいない。大して彼の作品を観ているわけでもない僕でも、こればかりは断言できる。ガス・ヴァン・サントにしか、こんな映画撮れない。

沈鬱なはずのシーンにあえて明るい音楽を添える手法が堪らない。バニラアイスの表面をスプーンで削っていくみたいにして、わずかな痛みもないままに、胸の内を少しずつ抉られていく。そんな感覚がある。さらに、この映画は時系列をバラバラにして構成されていて、繰り返しスクリーンに映し出されるシーンがいくつかあるのだが、そこにはその都度新たな思いが重なって、前とは違う光景が広がることになる。自分を取り巻く現実を目の前にし、気持ちの整理をつけるべく手紙を書き続けるアレックスの作業と同調するようにして、過ぎ去った時間が「重層的に」観る者たちに迫り来る。しかし、それも無痛だ。自らの痛みとするには遠すぎる。そういう距離感がスクリーンと観客の間にはある。共感はしない。

それは、ガス・ヴァン・サントがこの映画から巧妙に「感情の芯」を抜いているからだと思う。「人を殺した」という現実を前にした若者を描くのに、彼の中に渦巻く感情を露骨に描いてしまっては、「人を殺した」という現実は彼というフィルターを通して歪んでしまうに違いない。彼の心の動きは撮り方や繋ぎ方といった表面的な部分が担っている(それで充分だし、そういった部分こそがこの映画の大きな魅力だ)。音楽によってアレックスの感情を積極的に表現しようという意図は見当たらないし、ストーリーやセリフによってそれを際立たせるというわけでもない(むしろそうした効果は致命的に邪魔なのである)。そのようにして高ぶる感情を表現する描写を控えた中で、ただ「人を殺した」若者の現実が、彼自身の心のゆらめきと共に観客に静かに見せつけられる。それこそが、スクリーンと観客との距離感の正体なのではなかろうか。

この映画は無痛ではあるが、それゆえに残酷な現実はその残酷さを留め、観客はそれから目を逸らすことができない。アレックスは映画の最後に、授業中の教室で深く目を閉じ、教師の呼び掛けにも応答しない。もしかするとアレックスがそもそも高ぶらずにいられるのは、彼が自分の心の中の「パラノイドパーク」に逃げ込んでいるからなのかもしれない。そんなことを感じさせるラストだ。

目を逸らしてはいけない。観客である僕は彼にそう声を掛けなければならない。そして、それはまた、僕自身にも……。

(ロバート・コペンハーゲン)2008.04.15 23:54

【演劇】ケラ版『どん底』を観劇したよ!(ロバート・コペンハーゲン)2008.04.14 12:38

Bunkamuraシアターコクーンで上演中のケラリーノ・サンドロヴィッチ版『どん底』を観劇。
途中15分の休憩を挟んで3時間超、いつも通りの長尺。
でも、今回の劇の場合、3時間超でなければならない理由がそんなにない気もしたりしなかったり。
というのも、一幕では貧民窟に暮らす人々の人間関係が淡々と描かれるのだが、これがなかなか退屈で、随所に挟み込まれる笑いもあんまりピンと来なくて、率直にいって冗長に感じてしまったからなのだけど、二幕の怒涛の展開を考えると、その冗長さは後に起こる出来事を際立たせる上でなくてはならないものであるような気もして、どうにもこうにも判断しかねるのだ。
っていうか、原作の戯曲も読んでいないのに「判断しかねる」もなにもない……とか書きつつも、「一幕はやっぱりどう考えても長すぎるよなぁ」と思わずにはいられない自分がここにいることは紛れもない事実なのだ!

それはさておき、マギーの演技がいい。
サブキャラクターでありながら、全体の要となるような存在感を醸し出していて、地味だけどすごくよかった。
すごくよかったというと、二幕に入った後の地上のセットとそこでの一連の出来事。
どこでもない場所のどこでもなさが粘土細工チックな造形によって引き立ち、その上で動き回る大勢の人物の光景は普遍的な悲劇のサンプルとして観客に「観察」されうるものに変質していたのではなかろうか。
そして、その「観劇」から「観察」への変化に異様さを感じる中で訪れる、圧倒的なカタルシス。
ちょっと自分でもなにを書いてるのかわからない部分があるけれど、なにはなくともこの部分には戦慄した。
劇全体を通して見ても、ここが絶対ハイライトなわけだし!

とまあ、そんなわけで、とりあえず戯曲は読んでみようと思った。
ケラ版との相違点を見出して、いろいろ思いを巡らせてみるのも楽しそうだし。
あと、黒澤版の『どん底』も。
帰りにTSUTAYA(半額レンタル実施中)に寄って見てみたらすでに誰かに借りられていて、結局『不思議惑星 キン・ザ・ザ』と鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を借りた。
このチョイスに特に意味はない!

(ロバート・コペンハーゲン)2008.04.14 12:38