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| 映画『天然コケッコー』/東京の遥か先、恋愛のちょっと手前(ロバート・コペンハーゲン)2007.07.30 03:33 |
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指と指の間からこぼれてしまわないように、そっとすくいとってフィルムの中に詰め込んだ、ふわふわとした退屈な日常。僕らが映画『天然コケッコー』で目にするのは、誰もが必ず失ってしまう、卵の殻みたいなものに護られて、奇跡みたいに輝いた、「それ」を描いた物語だ。

舞台は島根のド田舎。がさつだけど、時に繊細な一面を覗かせる東京からの転校生・大沢広海(岡田将生)に、中学二年の右田そよ(夏帆)は徐々に心惹かれていく。山と海と青い空に囲まれたゆるーい田舎の日常の中で、伸び伸びと、でも、時々危なっかしい何かに気づいて少しだけ怯えながら成長していくそよの姿は、まだ何の汚れも知らない、いたいけな少女そのもの……と書こうと思ったけれど、キスを許す代わりに大沢くんのジャケットをもらったりするところを見ると、なかなかそうも書けない気がしてくる。女ってこわい。
でも、そんなことができてしまうのは、彼女がまだ恋愛のちょっと手前を行ったり来たりしているところだから。そして、それは大沢くんも同じ。手を繋ぐのもキスをするのも特別な意味を帯びるそのちょっと手前で、2人は恋(らしきもの)をする。「片思いが一番楽しい」だなんて言うことがあるけれど、すべてが始まる前の<始まりの予感>で満ちた退屈な日々には、始まってしまった後には必ず失われてしまう、眩しいくらいの輝きがあり、その輝きは失われてしまった後、より一層記憶の中で美しく輝き続ける。
それが哀しい。それがいつだって哀しいから、せめて映画の中くらい<始まりの予感>で一杯にしてほしい。そうは思うけれど、この映画は最後、以前レビューを書いた、くるりの『言葉はさんかく こころは四角』が流れ始めてエンドロールを迎える。あの曲は<終わりの予感>に満ちているから、そよが高校生になって、周りにはたくさんの男の子がいて、“繋いだ手を振り払うようにして”大沢くんの元を去っていく時がいつの日かやって来ることを、僕は予感せずにはいられなくなる。それどころか、彼女は島根の故郷の町を出て、東京で一人暮らしを始め、人ごみで溢れかえる新宿駅も平気で歩けるようになり、大学のサークルの下品極まりない飲み会ではしゃいだりして、それどころか男と同棲始めちゃったりして……。
ああっ! 俺はもうイヤだよ! やってらんねえ! もう本当にやってらんねえ! でも、それはしょうがないってわかってる! そして、それを含めて、『天然コケッコー』は素晴らしい。ふわふわと、キラキラと、だらだらと、ホカホカと、『天然コケッコー』は東京の遥か向こうの、恋愛のちょっと手前の場所で、ずっと始まりを待っていて、僕の心を落ち着かせる。と同時に、僕は自分が失くしたものと失くしていくだろうものを目の前に並べてみて、腕組みをして考え込んでしまう。僕にとって「何が終わっていて、何が始まろうとしていて、何が始まっていて、何が終わろうとしていているのか」についてを。
とりあえず、恋は始まりそうもないなぁ。この映画を初日にひとりで観に行く女の子ってものすごく魅力的だから、声をかけたい衝動にめちゃくちゃ駆られたけど、そんな度胸は僕という人間のどこを探しても見つからなかったわけだし……。それっていわゆるナンパだし……。
