でんでんむしのかなしみを考えるヒント
今回考えた人・・・なかいち

『ごんぎつね』でおなじみ、新美南吉。
もちろん彼は、『ごんぎつね』以外にも、さまざまな作品を遺しています。その中の一つに『でんでんむしのかなしみ』という短いおはなしがあります。ということで、今回は、この『でんでんむしのかなしみ』という文章を取り上げることにします。

といっても、毎度のことながら、作品についての深い洞察や鑑賞の心得なるものは全く持ち合わせていないので、なるべくそんなものには突っ込まないようにします。

まずは、『でんでんむしのかなしみ』とはどんな文章なのか。
もちろんうまく要約できればいいのだけれど、たった700字足らずのこの短い作品について、僕が下手に要約すると、全文の文字数よりも長くなってしまう危険性があるので、この際、全文載っけてしまうことにします。
なので、内容の知っている方や、内容は知らないけれど読むのが面倒だと思う方や、急いでいる方はどうぞ読み飛ばしてください。
また、内容は知らないけれど読むのが面倒だと思う方や、急いでいる方は、むしろ僕の書いているくだらない文章のほうを飛ばして、『でんでんむしのかなしみ』のお話だけを読んだほうが時間を有効に使っていて、いいかもしれません。


ということで以下が『でんでんむしのかなしみ』の全文です。
(本文作成にあたっては青空文庫『デンデンムシノ カナシミ』を用い、現代仮名遣いに改めた。といっても、要はカタカナをひらがなに直しただけなのだけれど。)

* * *


いっぴきの でんでんむしが ありました。

ある ひ その でんでんむしは たいへんな ことに きが つきました。

「わたしは いままで うっかりして いたけれど、わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるでは ないか」

この かなしみは どう したら よいでしょう。

でんでんむしは おともだちの でんでんむしの ところに やって いきました。

「わたしは もう いきて いられません」

と その でんでんむしは おともだちに いいました。

「なんですか」

と おともだちの でんでんむしは ききました。

「わたしは なんと いう ふしあわせな ものでしょう。わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるのです」

と はじめの でんでんむしが はなしました。

すると おともだちの でんでんむしは いいました。

「あなたばかりでは ありません。わたしの せなかにも かなしみは いっぱいです。」



それじゃ しかたないと おもって、はじめの でんでんむしは、べつの おともだちの ところへ いきました。

すると その おともだちも いいました。

「あなたばかりじゃ ありません。わたしの せなかにも かなしみは いっぱいです」

そこで、はじめの でんでんむしは また べつの おともだちの ところへ いきました。

こうして、おともだちを じゅんじゅんに たずねて いきましたが。どの ともだちも おなじ ことを いうので ありました。

とうとう はじめの でんでんむしは きが つきました。

「かなしみは だれでも もって いるのだ。わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」

そして、この でんでんむしは もう、なげくのを やめたので あります。


* * *

要約すると、
悲しいと思っているときは、こんな悲しい目に遭っているのはこの世の中で自分以外にはないだろうと、ついつい思ってしまいがちになるが、実は、みんなかなしみを持っているものだ、という感じですかね。

要約しないといいつつ結局、要約しているし・・・。とはいっても、国語は苦手な教科だったので、的はずれのことを書いているかもしれないけれど。まあ、思ったより短くまとまったので勝手に満足してます。


しかし、でんでんむしは何がそんなに悲しかったのだろうか。
作品についての深い洞察や鑑賞の心得なるものは全く持ち合わせていない僕の勝手な解釈によると、
でんでんむしがせっかく気持ちよく角を伸ばそうと思っているのに、角をつんつん触られて、無理矢理引っ込めさせられる。とか、歩きたくもないのに、よく、とがったえんぴつの先を歩かされる。ということなのではないのか。


こんなことをされると、でんでんむし自身にとっては堪ったものではない気はする。
が、相対的に見るとはたしてそうなのだろうか。

ということで、今回のテーマはこちら。
実のところ、でんでんむしはそれほど悲しいことはないのではないのか?


どういうことなのか?というと・・・

実際、でんでんむしなんかよりも、ナメクジの方が絶対悲しい思いをしていると思う。


例えば、でんでんむしは触れるという人はいるが、そういう人でも、ナメクジというだけで触るのを嫌がったりする。つまり、でんでんむしとは違い、ナメクジは触るのさえ嫌がられる存在であるということだ。また、でんでんむしを飼ったことがあるという人は聞いたことあるが、ナメクジの研究をするなどしない限り(どんな研究なのだろう)、ナメクジを好きこのんで飼うという人はなかなか聞かない。

そして、ナメクジは、特に悪いことをしていない場合でも、見つけられたら最後、一方的に塩をかけられてひからびてしまう。
客観的に見ると、こんな理不尽なことはないと思う。

まだまだあります。
あじさいの葉にでんでんむしがのっていた場合、なんか風情を感じるかもしれないが、あじさいの葉にナメクジがのっていた場合、風情を感じるどころか、「うぇ!ナメクジだ…」と思われて、葉ごとちぎられ捨てられるか塩をかけられるか、どちらにしてもナメクジにとっては悲惨な最期を遂げることになる。

単に殻が付いているか、付いていないかの違いなのに、でんでんむしとナメクジではどうしてこんなにも待遇に差があるのだろうか。

進化の過程をたどっていくと、昔は海に住んでいたでんでんむしとナメクジの祖先は、貝の仲間だったそうな。その後、陸上へ上がり進化していく過程で、でんでんむしだけ殻を残してナメクジは殻を退化させていったのだそうです。
つまりは、やはりどちらも同じ祖先を持つ似たもの同士なのだ。なのにこんなにも待遇に差があるのは、僕の勝手な推測によると、たぶん陸上にいるくせにでんでんむしは貝みたいに殻を持っているのという珍しさから来るに違いない。哺乳類なのに海に住んでいるイルカやクジラの待遇がいい(魚が浜に打ち上げられていても、誰も見向きもしないのに、イルカやクジラが浜に打ち上げられた場合、多くの人が出てきて助けようとする。)のと同じようなものなのだろう。

また、でんでんむしよりナメクジの方が待遇が悪い理由として、ナメクジは作物の葉を食べてしまう害虫というイメージがあるから、ということが挙げられるかもしれない。
実際、ナメクジは農作物の葉や芽を食い荒らす害虫なのだが、それは、実はでんでんむだって同じで、結局どちらも葉や芽を食べてしまう害虫ということには変わりない。

やはり同じ害虫なのに、ナメクジに比べると、でんでんむしは優遇されていると言っていい。


このように見てくると、
でんでんむしが角をつんつん触られたり、とがったえんぴつの先を歩かされることなんか、ナメクジに比べればどうってこと無いように感じられてくる。
やはり、でんでんむしなんかよりも、ナメクジの方が絶対悲しい思いをしているのだ。


では、そろそろ終わるので、最後に一言だけ。
『でんでんむしのかなしみ』はそれでとてもいい話だけれど、もしも新美南吉さんが『ナメクジのかなしみ』という作品をつくっていたらまたそれはそれで(なにか説得力があったりして)面白い話になったように思います。


でも、そうすると、ナメクジは何処にかなしみをしまうのだろう・・・。