ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第41回 「お米は生きている」とぼく


この「お米は生きている」を企画するにあたって、僕はこんな文章を書いた。
あれからもう1年以上が経っている。


あの頃思い描いていた「今よりはマシな人間」になんて永久になれそうもない気がする。
ああ、本当にどうしようもない。
ああ、もう本当に、不安で不安でどうしようもない。

いや、けど、まだもう少し……がんばってみようかな。



あの時よりも僕は<マシな人間>になれただろうか?
このサイトをやろうって考え始めた時よりも、少しは<マシ>になったのだろうか?
最近全然コラムを書いていないという事実が、僕をどんどん<マシな人間>からは遠いところへと追いやっていく。
そんなことを始終考えて、気が滅入って、ますますなにも書けなくなっていったからって、だったらこの「お米は生きている」をいっそのことやめてしまおうなんてことは、1度たりとも考えたことがない。
どんな形であれ、続けていきたい。
情熱とか、そんなものとは程遠いネガティブな気持ちで、僕はずっとそう思っている。
サボりにサボっているクセに、こんなことを書くのは自分でもどうかとも思うけれど、とにかく書いておきたいからかまわず書き続けよう。
え~い、ままよ!!!

数は少ないけれど確かにいる読者の方々にとって、「お米は生きている」がなくなってしまうことは、ほんの些細なことだろう。
なくなったって、どうってことない。
でも、僕にとってはどうってことあるのだ。
「お米は生きている」がなくなったら、僕が困る。
「お米は生きている」がなくなるということは、帰る田舎がなくなるということに似ている気がする。
親類縁者が謎の伝染病等の諸事情により全滅して、生まれ故郷に帰る理由が墓参りと高校の同窓会以外になくなってしまうことに比べたら、「お米は生きている」がなくなることなんてどうでもいいっちゃいいのだけれど、ウェブ上に「お米は生きている」が存在するということそれ自体が安心感みたいなものを僕にもたらしてしまっている今、「お米は生きている」がない生活なんて到底考えられない。
いや、別に考えられると言えば考えられる。
ただ1年前の状況に戻るだけだ。
でも、それはイヤなのだ。
もう絶対にイヤなのだ。
どういうわけか、なにがなんでも!

コラムを書いていない間に、僕はコラムを書いていた時「お米は生きている」を更新することによって日々の心のバランスをとっていたのだということに気づかされた。
書かなければ書かないほど、僕は元気がなくなっていく。
なにもする気が起きなくなって、僕は生ける屍と化す。
どうせ生ける屍っぽい生活を送って無駄な電力を消費するくらいなら、死をもってエコライフを実践するもいいかもしれない。
いや、いかんいかん!
それでは本末転倒ではないか。
この調子で二酸化炭素を排出し続け、自然を破壊しまくっていると、逆に人間が自然にブチ殺される破目になるから「地球にやさしくしよう」って話であって、エコそのものは目的ではなくて、この先人類が生き残っていくための戦略なわけだから、エコのために死ぬなんてナンセンス。
ナンセンスったらナンセンス。
でも、別に意義ある死なんてある気もしないし、エコのために死ぬ人生もまた一興か……とかなんとか考えつつ、結局なにもしない。
いや、「なにもしない」と言っても、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画館や美術館へ行ったり、メシ食ってウンコして風呂入って歯磨きして無意味に長時間寝たりはする。
でも、目の前にあるやるべきことにはほとんど手をつけない。
僕にとっての「なにもしない」はそういうことだ。
やるべきことをなにもしない。
本当に「なにもしない」ことができたら、新しい宗教とか始められるかもしれない。
悟りっぽいものを開いちゃったりなんかして。
いや、別に僕はそんなの全然開きたくない。
お洒落なカフェバーとかなら開きたいけど。
派手な披露宴はしたくないっていう新婚カップルが家族と親しい友人だけを招いて結婚パーティーを開くのに打ってつけ。
そんな感じのやつ。
僕は悟りよりむしろそんなカフェバーを開いてみたいなぁ!

さて、話をカフェバー経営の夢から元に戻そう。
僕はエコのために死ぬ度胸もないので、やるべきことをなにもしないまま無為に日々を過ごす。
暇だけはたっぷりあるので、コラムを書かなくなるそもそもの理由はただの怠惰に違いなく、その怠惰さに一旦嫌気が差し始めると、もう泥沼に嵌まって抜け出せなくなる。
自己嫌悪の泥沼に肩まで浸かってしまったら最後、少しは手をつけていたやるべきことにも少しも手をつけなくなって、とことんなにもしなくなる。
その代わり、現実逃避のために映画館に足を運んでみたり、読書に耽ってみたりする。
いくらインプットしてもちっともアウトプットしないことを恥じ始めると、今度は首から上の部分までズブズブと泥沼の中へと沈んでいく。
呼吸困難になって窒息しそうな状態にまでなると、僕はひたすらケータイでテトリスをプレイし続けるようになる。
ここまでくると映画を観に行く気力もなくなる。
活字は目で追うのがやっとで、内容が全然頭に入ってこなくなる。
当然元気はなくなっている。
「元気があればなんでもできる」かどうかは知らないけれど、元気がないとなんにもできない。
それこそもう、テトリスのバーを積んでは消していくくらいしかできない。
元気な人は延々とテトリスなんかやったりしないのだ。
それにしても「元気」って言葉にはなんでこんなにも陳腐な響きがあるのだろう?
元気ってすごく大切なことなのになぁ!

で、「だからなんだ?」という話だ。
ここまで長々と書いてきたけれど、結局僕が言いたいのは「お米は生きている」は形を変えてでも、なんとしてでも続けたいということ。
それだけなのだ。
テトリスをやめてコラムを書いている理由はただそこにしかない。
「お米は生きている」を殺したくない。
そして、なにより僕はまだ<今よりはマシな人間>になりたいと願っている。


「お米は生きている2.0」の話をみんなとしたい。
才能なくても、頭悪くても、まだもうちょっとやってみたい。


第41回 「お米は生きている」とぼく 終