ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第32回 記憶と歴史とぼくのCD


今年に入ってから大学周辺の中古CD屋で、新旧の名盤と呼ばれるロックアルバムを手当たり次第買い漁っている。
春に新しく買ったCDラックがいっぱいになってしまったので、新しいラックをもうひとつ買おうかどうか迷っている最中にも、どんどんCDを買って来てしまい、収納しきれなくなったCDがラックの上に堆く積まれて、それはそれでなかなかの絶景となっている。
先週のコラムの中でペロ沼くんにも指摘された通り、僕は……


……だから、そんな光景を見るとちょっとだけ気分がよくなるのだ。
と同時に、自分という人間のクソっぷりを思い知らされて嫌気がさすことになるわけだけど、音楽や映画や小説を知れば知るほど(と言っても、そんなに知らないんだけど……)、それらが様々な点で関連づけられて、自分の中に歴史が築き上げられていくのがわかるのは、素直に気持ちいいものだと感じる。

ひとつひとつの作品が単に消費され、僕を通りすぎていくだけなら、そんな快感は味わえない。
いろんな作品が僕の腹の底に1回ストンと落ちていって、そこで、腹の中に住んでいる小さい僕がその作品を手にとって、虫眼鏡を使い、細部を隈なく調べ上げ、床に広げた大きな地図に新たな書き込みを加えていく……そんな作業を通じて、歴史(と言っても、もっぱら戦後)の中での自分の立ち位置を、「大体このへんかな?」と見定めてみる遊びが、僕は結構気に入っている。

YouTubeなどの動画配信サイトの登場によって、いくらでも無料で手軽にテレビ番組や映画や音楽を楽しめるようになったけれど、あれではそうした遊びはできない。
いつも大変お世話になっているけれど、匂いや手触りなどの身体感覚を伴わずに見聞きした作品の数々は、その時その場では楽しめても、腹の底には落ちていかず、驚くほどに自分を素通りしていくのがわかる。
いつ何を見たのかすら、僕にはほとんど思い出せないのだ。

たとえば中古CD屋なら、年代別に棚が違ったり、ジャンルごとに建物が別だったりなんてことがある。
ある階ではバニラのお香の匂いがしたり、またある階ではタイガーバームの匂いがしたり。
CDケースをカタカタと指で弾きながら品定めをして、親指と人差し指の先が変な感じにベタついて気持ち悪かったり、店員が暗くて無愛想でちょっと気分を害したり。
そのくせ、入り口に貼られたバイト募集のチラシには「明るい接客のできる方募集!」なんてデカデカと書いてあったりなんかして、心の中で「店員、全員暗いじゃねえか!」とツッコミながら別の建物へと歩いて行ったり……。

いつ何のCDを買ったのか、僕はしっかり憶えている。
そして、記憶に留まるだけの準備が整って初めて、そこに収録された音楽は、僕の腹へとストンと落ちる。
CDの山は、僕の記憶と歴史の山だ。
パソコンの中にいくらファイルが貯まっても、同じことは言えないだろう。

YouTubeなどの動画配信サイトでいろんなコンテンツを閲覧するのは、結局のところ「消費」でしかなく、「鑑賞」とはちょっと言えない気がしている。
その消費をきっかけにして、実際にCDを買いに出かけたり、劇場へと足を運んだりすることが何より重要だし、そういう気にさせてくれるコンテンツこそが優れたものであるはずで、著作権がどうのこうのと喚いている奴らの作ったものなんて、どうせ現実に誰かを動かす力などない、クソみたいなものなんだろうなと、僕は勝手に思ってしまう。

でも、クソみたいなものであっても、作っていない奴よりも作っている奴の方がずっとエラいに決まっている。
そういえば、浅草キッドの水道橋博士さんがブログの中でこんなことを書いていた。

地位を得ない、行為者でもない、 日陰者が、
目立ったものへの、 「あいつは駄目! 」
という自分のアピールほど、 無意味なものはない。


全くその通りだ。
とは言え、わかってはいながら、いつもいつも他人への無意味な批判が口をついて出てきてしまう。
ああ、とにかく今は、制作中のアニメを早いところ仕上げなければ。
話はそれからだ。
そして、何よりあのCDの山が、記憶と歴史だけじゃなく、いつの日かちゃんと自分たちの作るものにも繋がっていったのなら、それほどうれしいことはないのだけれど……。


新しいCDラックは、アニメができてから買いに行くことにしよう。


第32回 記憶と歴史とぼくのCD 終