
ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第24回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅵ
先日の「お米ニュース」で「今度は『大日本人』を絶賛する」なんて書いてしまったことを後悔しつつ、今回のコラムでは松本人志さんの初監督映画『大日本人』の感想メモを長々と掲載していくことにします。
「話と違うじゃねえか!」というお怒りの声はごもっとも。
素直に謝らせてください、ごめんなさい。
でも、もう今回のコラムの路線は変更しません。
なぜなら、この冒頭の文章を書いているのは感想メモを書き終わった後だから……。
もう後戻りできないのです、残念ながら。
そんなわけで今週も「お前は一体ナニ様だ!?」と言いたくなるような映画批評(らしきもの)、スタートです。
ちなみに、以下の文章中の敬称は略させていただきました。
ご了承ください。
■ 松本人志には映画なんか壊す前に、「松本人志」を壊してほしかった。「『ごっつええ感じ』や『ビジュアルバム』が好きな人なら……」といった『大日本人』の感想がネット上には溢れている。確かにその通りなのだが、そんな感想を多くの人に抱かせてしまうのは、率直に言って恥ずべきことだと僕は思う。松本人志は日本のお笑いの文脈の中で新しいことをやってきた。「松本以前/松本以後」と区別が可能なくらいに大きな足跡を残した。でも、『大日本人』はどうだ? ただメディアを映画に変えただけで、これまで彼が築き上げてきた「松本人志」から全然はみ出しちゃいないじゃないか!
■ 僕は「松本人志が遂に映画を撮る」と聞いて、彼はようやく新しいステップを踏み出すのだな……と、大きな期待を寄せた。しかし、フタを開けてみれば、『大日本人』は「映画とはこうあるべき」というものを単に無視しただけで新しい映画のスタイルなどちっとも提示できていない上に、内容も従来の「松本人志」を反復しているにすぎなかった。松本人志が従来の「松本人志」を超えられなかったら、テレビやビデオで観たことのある映像がいつもより長く続く……というだけの作品になってしまうに決まっているではないか。「松本人志らしい映画」に収まってしまっている時点で、『大日本人』はもう新しい映画でも何でもない。
■ それまでの流れを根底から覆すようなラストも想像の範疇だ。少なくとも1975年に公開された『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』のラストからの方が数段衝撃的で、数段洗練された印象を受ける。『大日本人』と『ホーリー・グレイル』、どちらの方が笑えるかと言えば、それはやっぱり前者なのだが、『大日本人』と現在日本でも公開中の『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』を比べると、(僕個人としては)『ボラット』の方がずっと笑える。『大日本人』と『ボラット』では笑いのベクトルが全く異なることは確かだが、後者の方は観客を笑いでねじ伏せるだけの熱量を持っている。『大日本人』にはそうした熱量はない。いや、そんな「低カロリー」なところが『大日本人』の魅力だということもわかるにはわかるのだ。しかし、しかし、しかし! どうも納得がいかないとしかもう言いようがない! 僕が思うに『大日本人』は実に中途半端な映画だ。「新しい映画が誕生した!」と言っても嘘になるし、「腹を抱えて笑える!」と言っても嘘になる。身も蓋もない言い方をしてしまえば、「数ある映画の内の1つ」だ。
■ 『大日本人』は松本人志の「これまでと今」が目一杯詰まった映画である。非日常的な設定の中に日常的な感情(特に悲哀)を持ち込み、それを笑いへと昇華する。これが、松本人志が最も得意とし、おそらく最も大切にしているスタイルであると僕は勝手に思っている。『大日本人』はそうしたスタイルを全面に打ち出した映画であり、スクリーンからはずっと心地よい「哀しみ」が滲み出ている。「哀しみ」が「おかしみ」に変わる瞬間。それが実に快感だ。そして、その快感こそ松本人志の真骨頂。『大日本人』でもそれは充分味わえる。そして、超人的な能力を持っているにもかかわらず不遇な毎日を送る主人公・大佐藤からは、松本人志自身が抱える心の葛藤が具に感じ取れる。しかし、僕が期待するのは、松本人志の「これから」だ。映画というフィールドを選んだ以上、彼は自分の「これまでと今」を乗り越えるべきだった。映画でテレビやビデオの延長をやるのは、もうこれっきりにしてほしい。もちろんテレビやビデオでやってきたことがダメだと言うわけではない。むしろスゴい。でも、あえて映画というフィールドを選んだのなら映画でしかできない自分なりの表現を見つけてほしい。僕は彼にぜひ第2作を撮ってほしいと思っている。そして、必ずや第1作を否定してもらいたい。そのために『大日本人』は存在するのだと言ってしまってもいいくらいだ。逆に言えば、第2作で『大日本人』を否定しないのなら、もう映画なんて撮らなくていい。と言うより、撮るべきじゃない。テレビの世界では名実ともにナンバーワンなのだから、これ以上映画にすがることはない。テレビや舞台でずっとおもしろければそれでいい。
■ とにかく僕は松本人志の第2回監督作品に大いに期待している。そして、きっとその作品こそが彼のターニングポイントになるだろう。1人の天才の行く末を、僕は見守り続けたい。
先日の「お米ニュース」で「今度は『大日本人』を絶賛する」なんて書いてしまったことを後悔しつつ、今回のコラムでは松本人志さんの初監督映画『大日本人』の感想メモを長々と掲載していくことにします。
「話と違うじゃねえか!」というお怒りの声はごもっとも。
素直に謝らせてください、ごめんなさい。
でも、もう今回のコラムの路線は変更しません。
なぜなら、この冒頭の文章を書いているのは感想メモを書き終わった後だから……。
もう後戻りできないのです、残念ながら。
そんなわけで今週も「お前は一体ナニ様だ!?」と言いたくなるような映画批評(らしきもの)、スタートです。
ちなみに、以下の文章中の敬称は略させていただきました。
ご了承ください。
■ 松本人志には映画なんか壊す前に、「松本人志」を壊してほしかった。「『ごっつええ感じ』や『ビジュアルバム』が好きな人なら……」といった『大日本人』の感想がネット上には溢れている。確かにその通りなのだが、そんな感想を多くの人に抱かせてしまうのは、率直に言って恥ずべきことだと僕は思う。松本人志は日本のお笑いの文脈の中で新しいことをやってきた。「松本以前/松本以後」と区別が可能なくらいに大きな足跡を残した。でも、『大日本人』はどうだ? ただメディアを映画に変えただけで、これまで彼が築き上げてきた「松本人志」から全然はみ出しちゃいないじゃないか!
■ 僕は「松本人志が遂に映画を撮る」と聞いて、彼はようやく新しいステップを踏み出すのだな……と、大きな期待を寄せた。しかし、フタを開けてみれば、『大日本人』は「映画とはこうあるべき」というものを単に無視しただけで新しい映画のスタイルなどちっとも提示できていない上に、内容も従来の「松本人志」を反復しているにすぎなかった。松本人志が従来の「松本人志」を超えられなかったら、テレビやビデオで観たことのある映像がいつもより長く続く……というだけの作品になってしまうに決まっているではないか。「松本人志らしい映画」に収まってしまっている時点で、『大日本人』はもう新しい映画でも何でもない。
■ それまでの流れを根底から覆すようなラストも想像の範疇だ。少なくとも1975年に公開された『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』のラストからの方が数段衝撃的で、数段洗練された印象を受ける。『大日本人』と『ホーリー・グレイル』、どちらの方が笑えるかと言えば、それはやっぱり前者なのだが、『大日本人』と現在日本でも公開中の『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』を比べると、(僕個人としては)『ボラット』の方がずっと笑える。『大日本人』と『ボラット』では笑いのベクトルが全く異なることは確かだが、後者の方は観客を笑いでねじ伏せるだけの熱量を持っている。『大日本人』にはそうした熱量はない。いや、そんな「低カロリー」なところが『大日本人』の魅力だということもわかるにはわかるのだ。しかし、しかし、しかし! どうも納得がいかないとしかもう言いようがない! 僕が思うに『大日本人』は実に中途半端な映画だ。「新しい映画が誕生した!」と言っても嘘になるし、「腹を抱えて笑える!」と言っても嘘になる。身も蓋もない言い方をしてしまえば、「数ある映画の内の1つ」だ。
■ 『大日本人』は松本人志の「これまでと今」が目一杯詰まった映画である。非日常的な設定の中に日常的な感情(特に悲哀)を持ち込み、それを笑いへと昇華する。これが、松本人志が最も得意とし、おそらく最も大切にしているスタイルであると僕は勝手に思っている。『大日本人』はそうしたスタイルを全面に打ち出した映画であり、スクリーンからはずっと心地よい「哀しみ」が滲み出ている。「哀しみ」が「おかしみ」に変わる瞬間。それが実に快感だ。そして、その快感こそ松本人志の真骨頂。『大日本人』でもそれは充分味わえる。そして、超人的な能力を持っているにもかかわらず不遇な毎日を送る主人公・大佐藤からは、松本人志自身が抱える心の葛藤が具に感じ取れる。しかし、僕が期待するのは、松本人志の「これから」だ。映画というフィールドを選んだ以上、彼は自分の「これまでと今」を乗り越えるべきだった。映画でテレビやビデオの延長をやるのは、もうこれっきりにしてほしい。もちろんテレビやビデオでやってきたことがダメだと言うわけではない。むしろスゴい。でも、あえて映画というフィールドを選んだのなら映画でしかできない自分なりの表現を見つけてほしい。僕は彼にぜひ第2作を撮ってほしいと思っている。そして、必ずや第1作を否定してもらいたい。そのために『大日本人』は存在するのだと言ってしまってもいいくらいだ。逆に言えば、第2作で『大日本人』を否定しないのなら、もう映画なんて撮らなくていい。と言うより、撮るべきじゃない。テレビの世界では名実ともにナンバーワンなのだから、これ以上映画にすがることはない。テレビや舞台でずっとおもしろければそれでいい。
■ とにかく僕は松本人志の第2回監督作品に大いに期待している。そして、きっとその作品こそが彼のターニングポイントになるだろう。1人の天才の行く末を、僕は見守り続けたい。
第24回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅵ
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