
ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第23回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅴ
その映画を観終わった直後、僕は自分の身体の奥の方でぐるぐるぐるぐると渦巻くものの存在を感じ、とにかくなんでもいいからブン殴ってしまいたいという衝動に、猛烈に駆られました。
その映画とは、廣末哲万監督の『14歳』。
「劇場を後にして渋谷の街を歩く道すがら、焦りにも怒りにも似た感情をここでこぼしてしまわないようにと、俯きながら人波を掻き分ける僕の姿を、14歳だったあの頃の僕が見たら、一体何と思うんだろうか? たぶん、ものすごくカッコ悪い。 そう思うんじゃないだろうか?」
Bro.トシマサくんも先週のコラムで話題にしていたこの映画のことを、僕個人としては、決して優れた作品だとは感じていません。
しかし、他に類を見ないほどに、とにかく僕の心を掻き乱したということ。
それは紛れもない事実です。
論理的に考えてみればこんな映画は認められないと思う反面、情動的には完全に作り手の「思う壺」に、僕は嵌まってしまっていたのです。
陰鬱なムードが始終スクリーンを支配しているこの映画は、「14歳」という年頃が持つある1つの側面しか表現できていないのではないかと僕は思っています。
「14歳」は確かに残酷です。
でも、残酷であるのと同時にものすごくロマンチストであったりします。
「14歳」には「14歳」にしか持ち得ないような正義感や痛快さもあります。
僕は「14歳」がただ暗いだけの年頃じゃないことを知っています。
僕も昔は「14歳」だったのだから、それくらいのことはもちろん知っているのです。
そして、「14歳」がただ暗いだけじゃなく、底抜けに明るい側面も持っているからこそ、その暗さは一層際立ってくるわけです。
「14歳」という年頃としっかりと向き合って映画を作るなら、「14歳」が持つ明るい側面も描かれて然るべきだと僕には思えてなりません。
しかし、映画『14歳』は、始めから終わりまで、ずっと暗いのです。
これでは「14歳」という年頃の全体像は一向に見えてきません。
だから僕は映画『14歳』にどうも納得がいかない、というわけなのです。
でも、この映画を観て抱いた言いようもない感情は、別に「映画として納得がいかないから」とか、そんなこととは全く関係のないものである気がしています。
バランスの悪い、いびつな「14歳」が描かれるこの映画は、僕の心の中で既に出来上がっていた「14歳の僕」を大いに揺さぶりました。
今の自分が考える調和のとれた「14歳の僕」は、もうありのままの姿の「14歳の僕」とは掛け離れたものになってしまっています。
そして、オリジナルな「14歳の僕」は、もうこの宇宙のどこにも存在していないのです。
両者を比べてその違いを検証することもできないままに、僕は自分にとって都合のいいように変化してしまった「14歳の僕」をこれから先ずっと抱え続けなければなりません。
この映画はそういったことを暴き、喪失感の谷底へと僕を突き落としたのです。
僕は自分が「14歳」の頃から人間的にほとんど成長していないのではないかと思ってきました。
芯の部分では「14歳」の頃と何ら変わらない自分、というのが今の僕自身を規定していると思っていたところに、この映画です。
そりゃ、焦りますわ。
そりゃ、腹も立ちますわ。
「劇場を後にして渋谷の街を歩く道すがら、焦りにも怒りにも似た感情をここでこぼしてしまわないようにと、俯きながら人波を掻き分ける僕の姿を、14歳だったあの頃の僕が見たら、一体何と思うんだろうか? たぶん、ものすごくカッコ悪い。 そう思うんじゃないだろうか?」
いや、「14歳だったあの頃の僕」がどう思うかなんて知ったことかって話です。
だって、そんな奴はどこにもいないんだから。
そんな存在もしない奴に負い目を感じる必要はないんです。
でも、「14歳の僕」が永遠に失われてしまったことを考えると、やっぱりものすごく哀しい気持ちになります。
正直なところ、声を上げてワーンワーンと泣いてしまいたい気分です。
そんな時、僕はこの曲を聴くことに決めました。
以前から好きだったTHE HIGH-LOWSの「14才」という曲です。
この曲を聴くと、「14歳の僕」がまだこの宇宙のどこかで生きているような気がしてきます。
残酷でロマンチストで正義感に溢れ痛快だったはずの僕が、この曲の流れている間だけ、どこかで生きている気がするのです。
THE HIGH-LOWSが「14才」を発表した2001年、僕は確かに14歳でした。
そして、廣末哲万監督の映画『14歳』が公開された今年、僕は20歳。
あれから6年経って、僕はあの頃とどれくらい変わってしまったんだろうか?
今となってはそれはもう、誰にもわからないのです。
その映画を観終わった直後、僕は自分の身体の奥の方でぐるぐるぐるぐると渦巻くものの存在を感じ、とにかくなんでもいいからブン殴ってしまいたいという衝動に、猛烈に駆られました。
その映画とは、廣末哲万監督の『14歳』。
「劇場を後にして渋谷の街を歩く道すがら、焦りにも怒りにも似た感情をここでこぼしてしまわないようにと、俯きながら人波を掻き分ける僕の姿を、14歳だったあの頃の僕が見たら、一体何と思うんだろうか? たぶん、ものすごくカッコ悪い。 そう思うんじゃないだろうか?」
Bro.トシマサくんも先週のコラムで話題にしていたこの映画のことを、僕個人としては、決して優れた作品だとは感じていません。
しかし、他に類を見ないほどに、とにかく僕の心を掻き乱したということ。
それは紛れもない事実です。
論理的に考えてみればこんな映画は認められないと思う反面、情動的には完全に作り手の「思う壺」に、僕は嵌まってしまっていたのです。
陰鬱なムードが始終スクリーンを支配しているこの映画は、「14歳」という年頃が持つある1つの側面しか表現できていないのではないかと僕は思っています。
「14歳」は確かに残酷です。
でも、残酷であるのと同時にものすごくロマンチストであったりします。
「14歳」には「14歳」にしか持ち得ないような正義感や痛快さもあります。
僕は「14歳」がただ暗いだけの年頃じゃないことを知っています。
僕も昔は「14歳」だったのだから、それくらいのことはもちろん知っているのです。
そして、「14歳」がただ暗いだけじゃなく、底抜けに明るい側面も持っているからこそ、その暗さは一層際立ってくるわけです。
「14歳」という年頃としっかりと向き合って映画を作るなら、「14歳」が持つ明るい側面も描かれて然るべきだと僕には思えてなりません。
しかし、映画『14歳』は、始めから終わりまで、ずっと暗いのです。
これでは「14歳」という年頃の全体像は一向に見えてきません。
だから僕は映画『14歳』にどうも納得がいかない、というわけなのです。
でも、この映画を観て抱いた言いようもない感情は、別に「映画として納得がいかないから」とか、そんなこととは全く関係のないものである気がしています。
バランスの悪い、いびつな「14歳」が描かれるこの映画は、僕の心の中で既に出来上がっていた「14歳の僕」を大いに揺さぶりました。
今の自分が考える調和のとれた「14歳の僕」は、もうありのままの姿の「14歳の僕」とは掛け離れたものになってしまっています。
そして、オリジナルな「14歳の僕」は、もうこの宇宙のどこにも存在していないのです。
両者を比べてその違いを検証することもできないままに、僕は自分にとって都合のいいように変化してしまった「14歳の僕」をこれから先ずっと抱え続けなければなりません。
この映画はそういったことを暴き、喪失感の谷底へと僕を突き落としたのです。
僕は自分が「14歳」の頃から人間的にほとんど成長していないのではないかと思ってきました。
芯の部分では「14歳」の頃と何ら変わらない自分、というのが今の僕自身を規定していると思っていたところに、この映画です。
そりゃ、焦りますわ。
そりゃ、腹も立ちますわ。
「劇場を後にして渋谷の街を歩く道すがら、焦りにも怒りにも似た感情をここでこぼしてしまわないようにと、俯きながら人波を掻き分ける僕の姿を、14歳だったあの頃の僕が見たら、一体何と思うんだろうか? たぶん、ものすごくカッコ悪い。 そう思うんじゃないだろうか?」
いや、「14歳だったあの頃の僕」がどう思うかなんて知ったことかって話です。
だって、そんな奴はどこにもいないんだから。
そんな存在もしない奴に負い目を感じる必要はないんです。
でも、「14歳の僕」が永遠に失われてしまったことを考えると、やっぱりものすごく哀しい気持ちになります。
正直なところ、声を上げてワーンワーンと泣いてしまいたい気分です。
そんな時、僕はこの曲を聴くことに決めました。
以前から好きだったTHE HIGH-LOWSの「14才」という曲です。
この曲を聴くと、「14歳の僕」がまだこの宇宙のどこかで生きているような気がしてきます。
残酷でロマンチストで正義感に溢れ痛快だったはずの僕が、この曲の流れている間だけ、どこかで生きている気がするのです。
THE HIGH-LOWSが「14才」を発表した2001年、僕は確かに14歳でした。
そして、廣末哲万監督の映画『14歳』が公開された今年、僕は20歳。
あれから6年経って、僕はあの頃とどれくらい変わってしまったんだろうか?
今となってはそれはもう、誰にもわからないのです。
第23回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅴ 終
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