ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第20回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅲ


その映画がどれだけスゴいか知らねえけど、お前の褒め方がムカつくから、俺は絶対にその映画は観に行かねえ!

ときどき僕はそんな風に思う。
たぶん僕の発言も、ときどき誰かにそんな風に思われているんだろう。
いや、「ときどき」じゃなくて「いつも」かもしれない。
いつも思われているんだったら、すごく落ち込む。
もう映画など褒めてやるもんか。
実際、映画でもなんでも、「褒める」ことよりも「けなす」ことの方がずっと簡単だ。
とはいえ、「けなす」ことも、それはそれで勇気のいる行為ではある。
「じゃあお前に、お前が今『クソみてえな映画だな!』って言ったその映画程度の映画がつくれるのかよ!」と責め立てられたら、そりゃあもう泣いて謝ってホームセンターでロープを買って家から一番近い樹海に出かけてちょうどいい木を探して(事前に作成しておいたチェックシートに従って、枝の高さや太さなどを調べる)ロープを引っ掛けたりいろいろ準備して準備が整ったらそこはいっちょ覚悟を決めて首吊って死ぬしか選択肢がないわけで、何かを「けなす」という行為はいつだって死と隣り合わせの危険なものであることくらい、僕もそろそろ分別がついてきた。

さて、今週紹介する映画は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』
なんと今週も、先週先々週と予告してきた映画を一切紹介しない。
読者の皆さんもそろそろ呆れ返っていることだろう。
申し訳ない。
でも、何よりも先に『バベル』について語りたくなってしまったのだ。
ほんとにごめんなさい。
とにかくこの『バベル』、何が何でも上手く褒めたいという思いでいっぱいだ。
冒頭の一文のような思いを誰にもしてもらいたくないのだ。
もしそういう思いをさせてしまったら……その時はごめんなさい。
とまあ、言い訳云々はこれくらいにして、早速『バベル』の映画批評(らしきもの)を展開していくことにする。
あ、いや、その前にパンツくらい穿こうかな。
チンコ丸出しで映画について熱く語られても、全然説得力なんてないだろうし。
あ、いや、パンツを穿く前にハイソックスを脱ぐか。
いや、その前にベレー帽か?
う~ん、とりあえずこのままの格好でコラムを進めよう。
やっぱり自然体のままが一番いい。


***


■ バベル (監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)

人生のある瞬間に今とは違う選択をしていたら、僕も今ごろ凶悪殺人犯になっていたかもしれないなぁ……なんて、テレビで殺人事件のニュースを見ながら思いを巡らせてみることがある。
もちろんこれからだって、どこでどう人生が最低の方向に転がり始めて、愚かな行為をしでかすかもわからない。
殺人はさすがに極端でも、昨今話題のニートやひきこもりにだったら(そうならないための努力もしてるっちゃしてるけど)きっかけさえあればいとも簡単に自分だってなれてしまうわけで、僕が今現在ネットカフェ難民じゃないことも、結局はたまたま運よくそういう転がり方をしたってだけのことなんだろう。
テレビの報道番組っぽいテイストのワイドショーなんかを見ていると、そんな想像など微塵もしたことがありませんって顔をした人が結構出てきて、僕はそれがなんだか薄気味悪い。
世界のどこかで起こった自分が当事者でもおかしくなかったはずの不条理さに満ちた出来事を、テレビを眺めている僕らの想像力の範疇から遥か彼方に追いやってしまう、そんな彼らの言葉からは、どんなに深刻な顔をしてみせたところで、本物の「痛み」なんつーものは少しも伝わってこない。
現実の出来事を伝えているはずなのに、現実の「痛み」はちっとも伝わらない。

『バベル』には本物の「痛み」がある。
虚構の物語なのに、そこに描かれる「痛み」はしっかりと僕らの手元まで届き、僕ら自身の「痛み」に変わる。
モロッコの少年が放った一発の銃弾をきっかけに、アメリカ、メキシコ、そして日本といった様々な地域の人物がたまたま結びつき合い、そしてそれぞれにそれぞれの「痛み」を露呈させていくその過程こそがこの『バベル』という映画なのだが、そこでまざまざと見せつけられるある種の不条理(一瞬の偶然が人生を大きく揺さぶること)は、テレビやラジオや新聞で見聞きする現実に起こった不条理な出来事からは感ずることのできない「痛み」を、あたかも自分自身のものかのように、僕らに感じさせてくれる。
それは、「結局人は誰ともわかり合えない」というどうしようもない事実からくる「痛み」なんだけど、そんなことはわかっていても生きていかなきゃいけないわけで、「生きている以上はそこんところ諦めて堪るか!」ってエネルギーに満ち溢れているから、僕はこの映画を絶対に支持したいのだ。

『バベル』のことに限らず僕がいつも考えているのは、「絶対ムリ」ってわかっていながらに発する諦めない言葉たちの美しさについてだ。
たとえば、心の底から本気で「人生は美しい」とか歌ってしまったら、全然その言葉には重みがない。
っていうか、ただの嘘つきだ。
「人生ってそんなにキレイなもんじゃないよね」ってわかっていて歌うからこそ、その言葉には重みが生じる。
そういう自覚の元に歌われたその言葉は、もうただの嘘じゃない。
嘘じゃなかったら何だって話だけど、なんかまあ、そういう言葉こそ美しい気がするし、そういう言葉にこそ僕は騙されたいと思う。
いつどこでこうなってしまったのかはわからないけど、僕は長らくそう思ってしまっていて、映画のラスト近くでブラッド・ピットとケイト・ブランシェットがキスをするシーンに、今書いたみたいな思いもあって、ボロボロと涙をこぼしてしまった。
とにかく僕は、あんなにも泥臭くて、それでいて最高に美しいシーンをこれまで見たことがない。
「結局人は誰ともわかり合えない」からこそ「愛してる」という言葉が大きな意味を持つ。
そんなことを感じずにはいられないシーンだった。
いや、別に言葉じゃなくたっていいかもしれない。
「結局人は誰ともわかり合えない」からこそ「抱きしめる」って行為に大きな意味がある。
そんなシーンもあった。
逆に「結局わかり合えない」からこそ「愛してる」って言うとか「抱きしめる」って行為をするとかで、慰め合うことしか人はできないのかもしれないけど、でも、そうだとしたっていいじゃないか。
『バベル』はそんな風に、「わかり合うこと」の不可能性の向こう側にこの世界の不条理を乗り越える力の在り処があることを感じさせてくれる映画だ。

ちなみに、その力のことを、僕らは便宜的に「愛」と呼ぶ。

ここまでほとんどストーリーやキャストについて言及することなく、滔々と自分の思いの丈だけを語ってしまい、実際に映画を観ていない人にこんな文章が伝わるものかと若干悩む。
けど、なんとか書きたいことは書けた気がするので、それはまあよしとしたい。
あ、もしよかったら『バベル』観に行ってみてください。
大して期待せずに観に行っても、たぶん度肝を抜かれると思います。

というわけで、『バベル』について僕が言いたいことは、以上だ。


***


よし、これだけ書けば、なんとか今週もコラムを締められる。
そして、いつまでもチンコ丸出しでいるわけにはいかないので、僕はそろそろパンツを穿こう。
もしくは、全裸でベランダに出て、誰かに抱きしめられるのを待つとか?
いやいや、それはないな。


映画じゃあるまいし……。


第20回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅲ