
ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第19回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅱ
この街では交差点を渡る時さえ
私にとっては
知らない森を歩くようなものよ
手帳にメモしておいたヴェンダースの『都会のアリス』に登場するそんなセリフを、俺はベッドに寝転がりながら何度も何度も読み返していた。
別にストーリーにはほとんど関係しない端役の女が呟いた、何気ない一言。
そんな一言を繰り返し黙読していると、手帳の真っ白なページに踊る俺の汚い文字が部分的にだんだんと変化していくのがわかって、俺はちょっとだけ楽しい気分になった。
この街では交差点を渡る時さえ
俺にとっても
知らない森を歩くようなものだぜ!
いえ~い!
手帳に踊る俺の文字は、ろくでもないロックミュージシャンがステージの上でシャウトしたってよさそうなセリフに変わってしまったけれど、やっぱりその根底にはある種の孤独感がで~んと鎮座しているのがわかって、俺はまた書き出しと同じような感傷的な気分に逆戻りしてしまった。
そうなんだ、実際あるんだよね。
俺も彼女と同じように「知らない森」を歩いている感覚を自覚することがあるし、もしかしたらキミも、俺や彼女と同じように「知らない森」を歩く1人かもしれない。
結構いるんじゃないだろうか、そうやって「知らない森」を歩いてる人って。
ただ、全然誰とも会わないよね。
俺たちの歩く森がとてつもなく広大なのか、それとも実は俺たちはそれぞれ全く別の森を歩いているのか。
そのへんはよくわかんないし、正直なところどっちだってかまわないんだけど、いずれにしろ『都会のアリス』の主人公であるフィリップ・ヴィンターって男はアリスって少女と偶然出会ってしまう。
そんな「知らない森」の中で。
で、ひょんなことから一緒に旅をすることになる。
『都会のアリス』って映画は、とどのつまり、ただそれだけの映画だ。
旅を通して2人が徐々に変わっていく。
それがどんな変化なのかは、いちいち文章にするなんて野暮だから(うまく表現する自信がないってのもあるけど)、ここでは書かない。
とにかく俺に言えるのは、『都会のアリス』は「ただそれだけ」の映画だってことだけ。
「ただそれだけ」ってところが最高に映画的で、最高に素敵な映画なんだ。
教訓もないし、共感もしなくたっていい。
それが映画の正しい姿だと俺は思う。
たとえば、ベートーヴェンの音楽を聴く時に「ベートーヴェンはこの曲を通して一体何が言いたかったんだろう?」なんて普通は考えないんじゃないだろうか。
音楽を聴くみたいに、映画も観ればいい。
俺はそう思っている……とかなんとか書いたけど、実は今の「音楽を聴くみたいに~」の件はデヴィッド・リンチが『マルホランド・ドライブ』のDVDの映像特典で言っていたことを大胆にもパクって書いた。
「なるほど、俺もそう思う」って思ったから、俺の意見にしてしまった。
俺の書いていることなんて、どうせほかの誰かがとっくの昔に考え倒していることばかりなんだから、そのへんはもう(たとえ見苦しくても)開き直ることにしている。
そんなわけで、話を進める。
要するに、必死になって映画から教訓を読み取ろうとするなんてムダだってことだ。
「で、結局この映画は何が言いたかったの?」なんて訊いてくる奴は、黙ってブン殴ってしまえばいいんじゃないだろうかと俺は半ば本気で思っている。
ついでに、「主人公に全然共感できなかった」とかプンスカ怒っている奴も全然ブン殴ってしまってかまわないと思う。
『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドに共感できる奴っているだろうか?
たぶん、あんまりいないと思う。
けど、『勝手にしやがれ』はダメな映画なんかじゃないし、それどころか紛れもなくスゴい映画だ。
何度見返してみたって、ちょっとそれは否定できそうにない。
頭じゃわかんなくても、感覚にビシバシくる。
センスが体中に突き刺さるあの感じが味わえる映画って、ほかにどれくらいあるだろう?
俺が思うに、あんまりない。
教訓の有無とか、共感できるかできないかとか、そんなものは映画の良し悪しに何ら関係ない。
じゃあ、何が映画の評価の基準になるかっていうと、そんなことは俺にはよくわからない。
それをここで書いてしまえるなら、たった1本の映画を評するのにこんなにクドクドと文章を書く必要なんてないはずだし、他人の書いた批評を読む理由も、自分で映画を撮らない理由も、俺にはきっとないだろう。
俺は自分が考える映画の評価の基準ってものをその都度言葉にして築き上げる作業を繰り返していくしかない。
しかも、そうやって俺が言葉にすることを通して築き上げていった常に未完成な基準は、俺だけのものであって、ほかの誰かと同じものではないはずだ。
だから、こんなコラムを「お米は生きている」に載せようとしているこの俺こそが、本当なら真っ先にブン殴られてしかるべきなんだと、俺はようやくここに来て気づいてしまった。
お前がどう考えてるかなんて知らねえよ、ボケ!
そんな突っぱね方も全くもってごもっともだ。
けど、それ以外に書くべきことなんてあるのだろうか?
俺が俺なりの正しさ(価値観?)を主張して何が悪い。
確かに、こんな話をディスプレイ越しにではなく、ドトールだとかスターバックスだとかで面と向かってされたら、俺だって滅茶苦茶うんざりする。
言ってる内容によっちゃ、適当に相槌を打つ俺のヴォイスもいつしか怒声に変わるだろう。
で、当然ケンカになる。
実際には殴ったりなんかしないだろうけど、店内には俺とそいつが罵り合う声が響き渡る。
周りの客の視線が一挙に集中する。
その中の誰かが呼んだであろう店員がやってくる。
もう少し静かにしていただけませんか?
当然俺たちは謝る。
恥ずかしそうに俯いて、テーブルの上の既に中身の飲み干されたマグカップを手にし、唇を近づける。
そこで一瞬動きが止まる。
クスッ。
思わず俺たちは噴き出してしまう。
俺たちっていっつもこうだな!
ついつい熱くなっちまうのは悪いクセだぜ!
店内に俺たちの笑い声が響き渡る。
またもや周りの客の視線が一挙に集中する。
しかし、今度は誰も止めに来ない。
俺たちは笑い続ける。
閉店間際まで笑い続ける。
そして、何事もなかったかのように、俺たちはそれぞれ家へ帰って風呂入って、もちろんクソもして、寝る。
で、最終的にはどっちかが先に……死ぬ。
そんなわけで、とにかく書き進めていく。
さて、『都会のアリス』には教訓なんてない(と、俺は思う)し、俺は別に主要な登場人物に共感したりもしない。
痛快さを感じられるようなドラマチックな成長も描かれない。
そこに描かれるのは、ぼーっと眺めていたら見逃してしまいそうな(そして、成長とはとても呼べないような)静かな変化だけだ。
静かな変化、ただそれだけ……と、ここまで書いて、俺はハタと気づいた。
そういうことだったのか!
あの静かな変化が、静かであるにもかかわらず、俺にこんな長文を書かせたわけがようやくわかった。
これでやっと冒頭に話が繋がる。
そうだ!
フィリップもアリスも森を抜け出していたんだ!
いつの間にか、彼らも(そして、観ている俺も)気づかないうちに、彼らは「知らない森」を抜け出して、俺の知らない「知らない森の外」へと歩き出していたんだ!
その場所が「知ってる森」だろうが、「森ではない別のところ」だろうが、そんなことは一向にかまわない。
「俺もそっちへ行きたい」と、俺は静かに打ち震える。
俺にも彼らのような変化は訪れるのか?
俺はいつまでこの森の中を歩き続けなければならないんだ?
知るか!
俺はこの深い深い森の中で、これから先もただひたすら、映画を観て/音楽を聴いて/小説を読んで/願わくば女の子とデートしたりして、この森の歩き方を学んでいく。
それしかできないし、そうするべきだと俺は思うね。
というわけで、俺はここに宣言する。
これから当分の間、俺はこの連載コラムの中で映画批評(らしきもの)を続ける。
来週は、先週予告しておいたのに今週しなかった『恋愛睡眠のすすめ』や『明日、君がいない』あたりの映画の批評をしていく。
ただし内容は予告なく変更することがある(今週みたいに)。
そして、このコラムはそう宣言したところで、ようやく終わりを告げる。
そういえば、『都会のアリス』のラストシーンは2人が「知らない森」へもう1度迷い込む予感に満ちていて、俺はちょっとだけ怖くなる。
で、エンドロールが始まると、俺はすぐに安堵する。
ここで映画が終わってくれてよかったなぁ。
やっぱりヴェンダースはスゴい。
引き際がちゃんとわかってる。
かく言う俺は、自分の引き際をいつも完全に見失ってしまう。
このコラムだって、もちろん例外ではない。
「そういえば……」と書き始めてしまった時点で、すでに引き際を見失ってしまっている。
もう後には引けない。
このまま強制終了あるのみだ。
ただし強制終了を実行するには、このコラムを読んでくれているキミの協力が必要不可欠だ。
まずはキミが普段使っているハンマーを手元に用意してほしい。
ハンマーがなければ、応接間に置いてあるガラス製のでかい灰皿や家の近所の道祖神なんかでもオッケー。
用意ができたら、パソコンのディスプレイの方を向いたまま、用意したものをしっかりと利き手で掴んで、大きく振りかぶってみよう。
そこまでできたら後は簡単。
そのままパソコンに向かってそのハンマーや灰皿や道祖神を、勢いよく振り下ろすだけ。
たったそれだけの手順でこのコラムは強制終了できるんだ。
とまあ、冗談はさておき、今週のコラムはこれにて終了!
来週もこの調子でブッ飛ばしていくぜ!
いえ~い!
やっほ~い!
振り落とされないようにしっかりと(俺の腰に)しがみつきな!
この街では交差点を渡る時さえ
私にとっては
知らない森を歩くようなものよ
手帳にメモしておいたヴェンダースの『都会のアリス』に登場するそんなセリフを、俺はベッドに寝転がりながら何度も何度も読み返していた。
別にストーリーにはほとんど関係しない端役の女が呟いた、何気ない一言。
そんな一言を繰り返し黙読していると、手帳の真っ白なページに踊る俺の汚い文字が部分的にだんだんと変化していくのがわかって、俺はちょっとだけ楽しい気分になった。
この街では交差点を渡る時さえ
俺にとっても
知らない森を歩くようなものだぜ!
いえ~い!
手帳に踊る俺の文字は、ろくでもないロックミュージシャンがステージの上でシャウトしたってよさそうなセリフに変わってしまったけれど、やっぱりその根底にはある種の孤独感がで~んと鎮座しているのがわかって、俺はまた書き出しと同じような感傷的な気分に逆戻りしてしまった。
そうなんだ、実際あるんだよね。
俺も彼女と同じように「知らない森」を歩いている感覚を自覚することがあるし、もしかしたらキミも、俺や彼女と同じように「知らない森」を歩く1人かもしれない。
結構いるんじゃないだろうか、そうやって「知らない森」を歩いてる人って。
ただ、全然誰とも会わないよね。
俺たちの歩く森がとてつもなく広大なのか、それとも実は俺たちはそれぞれ全く別の森を歩いているのか。
そのへんはよくわかんないし、正直なところどっちだってかまわないんだけど、いずれにしろ『都会のアリス』の主人公であるフィリップ・ヴィンターって男はアリスって少女と偶然出会ってしまう。
そんな「知らない森」の中で。
で、ひょんなことから一緒に旅をすることになる。
『都会のアリス』って映画は、とどのつまり、ただそれだけの映画だ。
旅を通して2人が徐々に変わっていく。
それがどんな変化なのかは、いちいち文章にするなんて野暮だから(うまく表現する自信がないってのもあるけど)、ここでは書かない。
とにかく俺に言えるのは、『都会のアリス』は「ただそれだけ」の映画だってことだけ。
「ただそれだけ」ってところが最高に映画的で、最高に素敵な映画なんだ。
教訓もないし、共感もしなくたっていい。
それが映画の正しい姿だと俺は思う。
たとえば、ベートーヴェンの音楽を聴く時に「ベートーヴェンはこの曲を通して一体何が言いたかったんだろう?」なんて普通は考えないんじゃないだろうか。
音楽を聴くみたいに、映画も観ればいい。
俺はそう思っている……とかなんとか書いたけど、実は今の「音楽を聴くみたいに~」の件はデヴィッド・リンチが『マルホランド・ドライブ』のDVDの映像特典で言っていたことを大胆にもパクって書いた。
「なるほど、俺もそう思う」って思ったから、俺の意見にしてしまった。
俺の書いていることなんて、どうせほかの誰かがとっくの昔に考え倒していることばかりなんだから、そのへんはもう(たとえ見苦しくても)開き直ることにしている。
そんなわけで、話を進める。
要するに、必死になって映画から教訓を読み取ろうとするなんてムダだってことだ。
「で、結局この映画は何が言いたかったの?」なんて訊いてくる奴は、黙ってブン殴ってしまえばいいんじゃないだろうかと俺は半ば本気で思っている。
ついでに、「主人公に全然共感できなかった」とかプンスカ怒っている奴も全然ブン殴ってしまってかまわないと思う。
『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドに共感できる奴っているだろうか?
たぶん、あんまりいないと思う。
けど、『勝手にしやがれ』はダメな映画なんかじゃないし、それどころか紛れもなくスゴい映画だ。
何度見返してみたって、ちょっとそれは否定できそうにない。
頭じゃわかんなくても、感覚にビシバシくる。
センスが体中に突き刺さるあの感じが味わえる映画って、ほかにどれくらいあるだろう?
俺が思うに、あんまりない。
教訓の有無とか、共感できるかできないかとか、そんなものは映画の良し悪しに何ら関係ない。
じゃあ、何が映画の評価の基準になるかっていうと、そんなことは俺にはよくわからない。
それをここで書いてしまえるなら、たった1本の映画を評するのにこんなにクドクドと文章を書く必要なんてないはずだし、他人の書いた批評を読む理由も、自分で映画を撮らない理由も、俺にはきっとないだろう。
俺は自分が考える映画の評価の基準ってものをその都度言葉にして築き上げる作業を繰り返していくしかない。
しかも、そうやって俺が言葉にすることを通して築き上げていった常に未完成な基準は、俺だけのものであって、ほかの誰かと同じものではないはずだ。
だから、こんなコラムを「お米は生きている」に載せようとしているこの俺こそが、本当なら真っ先にブン殴られてしかるべきなんだと、俺はようやくここに来て気づいてしまった。
お前がどう考えてるかなんて知らねえよ、ボケ!
そんな突っぱね方も全くもってごもっともだ。
けど、それ以外に書くべきことなんてあるのだろうか?
俺が俺なりの正しさ(価値観?)を主張して何が悪い。
確かに、こんな話をディスプレイ越しにではなく、ドトールだとかスターバックスだとかで面と向かってされたら、俺だって滅茶苦茶うんざりする。
言ってる内容によっちゃ、適当に相槌を打つ俺のヴォイスもいつしか怒声に変わるだろう。
で、当然ケンカになる。
実際には殴ったりなんかしないだろうけど、店内には俺とそいつが罵り合う声が響き渡る。
周りの客の視線が一挙に集中する。
その中の誰かが呼んだであろう店員がやってくる。
もう少し静かにしていただけませんか?
当然俺たちは謝る。
恥ずかしそうに俯いて、テーブルの上の既に中身の飲み干されたマグカップを手にし、唇を近づける。
そこで一瞬動きが止まる。
クスッ。
思わず俺たちは噴き出してしまう。
俺たちっていっつもこうだな!
ついつい熱くなっちまうのは悪いクセだぜ!
店内に俺たちの笑い声が響き渡る。
またもや周りの客の視線が一挙に集中する。
しかし、今度は誰も止めに来ない。
俺たちは笑い続ける。
閉店間際まで笑い続ける。
そして、何事もなかったかのように、俺たちはそれぞれ家へ帰って風呂入って、もちろんクソもして、寝る。
で、最終的にはどっちかが先に……死ぬ。
そんなわけで、とにかく書き進めていく。
さて、『都会のアリス』には教訓なんてない(と、俺は思う)し、俺は別に主要な登場人物に共感したりもしない。
痛快さを感じられるようなドラマチックな成長も描かれない。
そこに描かれるのは、ぼーっと眺めていたら見逃してしまいそうな(そして、成長とはとても呼べないような)静かな変化だけだ。
静かな変化、ただそれだけ……と、ここまで書いて、俺はハタと気づいた。
そういうことだったのか!
あの静かな変化が、静かであるにもかかわらず、俺にこんな長文を書かせたわけがようやくわかった。
これでやっと冒頭に話が繋がる。
そうだ!
フィリップもアリスも森を抜け出していたんだ!
いつの間にか、彼らも(そして、観ている俺も)気づかないうちに、彼らは「知らない森」を抜け出して、俺の知らない「知らない森の外」へと歩き出していたんだ!
その場所が「知ってる森」だろうが、「森ではない別のところ」だろうが、そんなことは一向にかまわない。
「俺もそっちへ行きたい」と、俺は静かに打ち震える。
俺にも彼らのような変化は訪れるのか?
俺はいつまでこの森の中を歩き続けなければならないんだ?
知るか!
俺はこの深い深い森の中で、これから先もただひたすら、映画を観て/音楽を聴いて/小説を読んで/願わくば女の子とデートしたりして、この森の歩き方を学んでいく。
それしかできないし、そうするべきだと俺は思うね。
というわけで、俺はここに宣言する。
これから当分の間、俺はこの連載コラムの中で映画批評(らしきもの)を続ける。
来週は、先週予告しておいたのに今週しなかった『恋愛睡眠のすすめ』や『明日、君がいない』あたりの映画の批評をしていく。
ただし内容は予告なく変更することがある(今週みたいに)。
そして、このコラムはそう宣言したところで、ようやく終わりを告げる。
そういえば、『都会のアリス』のラストシーンは2人が「知らない森」へもう1度迷い込む予感に満ちていて、俺はちょっとだけ怖くなる。
で、エンドロールが始まると、俺はすぐに安堵する。
ここで映画が終わってくれてよかったなぁ。
やっぱりヴェンダースはスゴい。
引き際がちゃんとわかってる。
かく言う俺は、自分の引き際をいつも完全に見失ってしまう。
このコラムだって、もちろん例外ではない。
「そういえば……」と書き始めてしまった時点で、すでに引き際を見失ってしまっている。
もう後には引けない。
このまま強制終了あるのみだ。
ただし強制終了を実行するには、このコラムを読んでくれているキミの協力が必要不可欠だ。
まずはキミが普段使っているハンマーを手元に用意してほしい。
ハンマーがなければ、応接間に置いてあるガラス製のでかい灰皿や家の近所の道祖神なんかでもオッケー。
用意ができたら、パソコンのディスプレイの方を向いたまま、用意したものをしっかりと利き手で掴んで、大きく振りかぶってみよう。
そこまでできたら後は簡単。
そのままパソコンに向かってそのハンマーや灰皿や道祖神を、勢いよく振り下ろすだけ。
たったそれだけの手順でこのコラムは強制終了できるんだ。
とまあ、冗談はさておき、今週のコラムはこれにて終了!
来週もこの調子でブッ飛ばしていくぜ!
いえ~い!
やっほ~い!
振り落とされないようにしっかりと(俺の腰に)しがみつきな!
第19回 オレとぼくの暴力的映画批評Ⅱ 終
| 第43回 | ぼくは鼻セレブで尻を拭く | 2008.03.24 |
| 第42回 | 小林秀雄とぼく | 2008.02.11 |
| 第41回 | 「お米は生きている」とぼく | 2007.12.21 |
| 第40回 | ぼくのお尻はめちゃくちゃ汚い | 2007.11.13 |
| 第39回 | ぼくのゲーム王国 | 2007.11.01 |
| 第38回 | ぼくの最強ドラムプレイ | 2007.10.24 |
| 第37回 | ぼく、サム・ペキンパーのなんなのさ | 2007.10.16 |
| 第36回 | こどもネット相談室Ⅰ | 2007.10.05 |
| 特別編 | THE CONTE MUST GO ON | 2007.09.15 |
| 第34回 | ぼくのなつやすみ | 2007.08.20 |
| 第33回 | ぼくのセカンドライフ漫遊記 | 2007.08.09 |
| 第32回 | 記憶と歴史とぼくのCD | 2007.08.01 |
| 第31回 | ぼくでやんす! | 2007.07.26 |
| 第30回 | ぼくのロックンロールスーサイド | 2007.07.17 |
| 第29回 | ぼくの謝罪文 | 2007.07.11 |
| 第28回 | あずきちゃんと勇之助くんとぼくⅡ | 2007.07.03 |
| 第27回 | あずきちゃんと勇之助くんとぼくⅠ | 2007.06.26 |
| 第26回 | 昔ぼくが作っていた壁新聞の話 | 2007.06.20 |
| 第25回 | ぼくのファッション通信 | 2007.06.12 |
| 第24回 | オレとぼくの暴力的映画批評Ⅵ | 2007.06.05 |
| 第23回 | オレとぼくの暴力的映画批評Ⅴ | 2007.05.29 |
| 第22回 | ぼくは味のしないガムを噛み続けた | 2007.05.22 |
| 第21回 | オレとぼくの暴力的映画批評Ⅳ | 2007.05.15 |
| 第20回 | オレとぼくの暴力的映画批評Ⅲ | 2007.05.08 |
| 第19回 | オレとぼくの暴力的映画批評Ⅱ | 2007.05.01 |
| 第18回 | オレとぼくの暴力的映画批評 | 2007.04.24 |
| 第17回 | ぼくのウンコ39連発 | 2007.04.17 |
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| 第15回 | 京都・東京・名古屋・ぼく | 2007.04.03 |
| 第14回 | ぼくがウンコを流す前に | 2007.03.27 |
| 第13回 | ぼくはIQチャレンジャー | 2007.03.20 |
| 第12回 | ぼくのゲームボーイ | 2007.03.13 |
| 第11回 | ぼくのスペシャル文房具 | 2007.03.06 |
| 特別編 | DON’T TRUST UNDER 20 | 2007.02.27 |
| 第9回 | ホットドッグプレスとぼく | 2007.02.20 |
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