ライター:ロバート・コペンハーゲン
毒にも薬にもならないけれど、読んでみるとなぜだか平常心が保てない、そんな詩とも小説ともコントとも区別がつかない「二度寝してもう少し見ていたい悪夢」のような文章を、毎週懲りずに連載していきます。
第15回 京都・東京・名古屋・ぼく


ああっ!
行く!
行く行く!
もうダメ!
京都!
京都行っちゃおう!

春休みも終盤を迎えたある日、かの有名なJR東海のキャッチコピーそのままの(実に健全な)衝動に駆られた僕は、特に行き先も決めぬまま、友達の下宿先に泊まらせてもらう約束だけを取りつけて、京都の街に降り立った。

今までに2度、僕は京都へやって来ている。
1度は小学校の時の修学旅行で。
もう1度は、いつだったかは忘れたけど、家族旅行で。
どちらも観光バスで京都の「ここだけは押さえとけ」っていう名所を回った。
が、あまり記憶にない。
冒頭からいきなりまとめっぽいこと(しかも内省的)を書いてしまうが、今回の旅で僕は、今までの2度にわたる京都旅行の断片的で不確かだった記憶を、ようやく現在の自分の手元まで回収することができたように思う。
自分の足で京都の街を歩いてみることによって、点と点が線で結ばれ、さらに、その記憶の手触りすら、今は感じる。
そんな気がする。

と、まあ、そんなことはさておき、京都駅を出るとすぐ目の前に飛び込んでくるものと言えばこちら。


京都タワー。
言わずと知れた古都・京都のセックスシンボル……なんて書いちゃうと、近しい人から白い目で見られたり、道行く京都出身者に突然何の前触れもなくブン殴られたりしそうだけれども、僕はこの京都タワーの形状が、誰が何と言おうと、最高に好きだ。
かっちょいい。
レトロフューチャーというか何というか、京都らしい古風な感じと完全に読み違えてしまった未来像みたいなものがうまい具合に合わさっている上に、セクシュアルな想像をも掻き立てる、もはや奇跡としか思えない絶妙なデザイン。
京都出身のロックバンド「くるり」のベストアルバムのジャケット写真にも登場するこの京都タワーの魅力に、僕は以前から相当打ちのめされていた。
が、実際に目にすると特に何の感慨もない。
それもいい。
気さくな感じがしていい。
つまり、大人気アイドルグループ「嵐」で言うところの大野くんみたいな存在だ。
おわかりいただけるだろうか?

そんなわけで、京都タワーを横目に、僕はすぐさまテキトーなバスに乗り込んだ。
行き先も決めていないので、本当にテキトーに乗り込んだ。
旅っていうのは予想を裏切る出来事が多ければ多いほど刺激に満ちたものになるんだ。
そう自分に言い聞かせ、平静を装い、テキトーに選んだバスに揺られ続けること15分あまり。
バスは一向に観光スポットに着く気配がない。
っていうか、このバス、土曜日の昼なのに全然客が乗ってない。
観光地へ向かうバスならもっと混んでいたっていいはずなのに。
やべえ。
完全にチョイスを誤った。
左右の耳が熱くなる。
どこかで降りなきゃ取り返しのつかないことになる。
後ろの席に座る海外からの観光客らしき人が降りたら、そこで僕も降りよう。
それっきゃない。
もう、それっきゃないでしょうよ!

そんな葛藤を経て、どうにか辿り着いたのがこちら。


伏見稲荷大社
立派な神社に辿り着き、とりあえず一安心。
何箇所かでお賽銭を入れて参拝した後、奥へ奥へと進んでいくと……


鳥居がいっぱいだ。
お稲荷さんって大体こんな感じではあるけど、ここの鳥居の数は1000本どころじゃ済まない。
行けども行けども、鳥居・鳥居・鳥居。


鳥居・鳥居・鳥居。
どこまで続くんだ、これ。
そう思い続けて10分、20分、30分……1時間。


途中にこんな感じの場所(なんかすごくかっこいい)がいくつもあって、それでもなお、鳥居は続いていく。
そして、そんな風に真っ赤な鳥居に囲まれ続けていると、次第に異界に迷い込んでしまったような錯覚に陥っていき、「からっぽな自分」がそこを歩いていることに気づかされる。
「自分探しの旅」だとか「旅先で新しい自分と出会う」なんていうのは、全部デタラメなんじゃないかと思えてくるのだ。

知らない土地をひとりで歩く。
そうした体験を通してまず実感するのは、「土地」と「その土地の記憶」と「自分」とが密接に関わっているということだ。
知ってる場所を歩く時、僕は僕のままでいられる……気がする。
故郷・名古屋の地元の住宅街を歩く時、栄の街を歩く時、渋谷の街を歩く時、新宿の街を歩く時、僕はそれまでの自分と地続きのままだ。
それぞれの街に対して僕はそれなりの記憶を持っているから、僕はその記憶の地図を広げてその土地を歩くことができる。
その時の自分は今まで積み重ねてきたものの上にあるんだけれど、全然知らない街を歩く時の自分は今までの積み重ねとは別の場所に立っているような気がしてならない。
束の間リセットされた気分。
そういうのを「新しい自分と出会う」って呼んでもいいのかも知れないけれど、その時に出会う自分はまだからっぽなままの自分なんじゃないか。
何度もその土地に通っていく中で、その土地についての記憶が生まれ、それと同時に新しい自分が形成されていく。
知らない土地を歩いたって新しい自分には出会えない。
知らない土地を知ってる土地に変えた時、新しい自分にようやく出会える。

けど、たとえば渋谷の街は、お店も駅前の広告も目まぐるしく変わっていく。
ちょっと行かないうちに知らない街に変わっている。
「この場所にこんな店あったっけ?」なんてことがよくある。
その度に記憶を更新しなければならないから、安心できない。
常に僕は不安定だ。
しかも、そんな風に目まぐるしく変化していく街を歩いていると、自分も変化を要求されているような気がして、なかなか成長できていない自分を咎められているような気さえする。
ほんとに、安心できない。

六本木ヒルズは100年後には絶対にない。
100年後には、今六本木ヒルズのある場所に六本木ヒルズがあったなんて、誰も憶えちゃいないだろう。
けど、たぶん、京都の街の寺社仏閣は100年後にも健在だ。
それはずーっとそこにあって、みんなの記憶を繋ぎとめる。
僕が歩く伏見稲荷大社の稲荷山だって、ほとんど今と同じ姿で100年後もそこにあるだろう。
まあ、皇居も明治神宮も浅草寺も、きっと100年後にもあるだろう。
東京にだって変わらない場所はいくつもある。
それでもやっぱり「そうだ、京都へ行こう」ってなるのは、京都の街が記憶を繋ぎとめて自分を保っておくのに一番(かどうかは怪しいけど)適した場所だからなんじゃないだろうか。

そんなわけで、僕は京都が好きだ。
安心したい時、僕は京都に行きたくなるのかもしれない。


そういえば、いちいちこんなのもかっこいい。
写真を撮った後に気づいたけど、誰かがペットボトルに水汲んでるってことは、この水飲めるってことか。


休憩のためのお店。
この角がなんかたまんなくて思わずシャッターを切った。
こういう店もいちいちいい味出してるなぁ。


京都を一望。
気がつくともうこんな素晴らしい眺めの場所に。
ところで、すごくどうでもいいことではあるけど、なんか地元のカップルらしき人たちが多かったなぁ。
山頂に近づくにつれて人もまばらになるのをいいことに、思いっきりキスをしている大学生くらいのカップル(しかも写真撮ってた)に出くわして、ものすごく気まずい思いもした。
正直、仲間に入れてほしいっつうの!

と、まあ、そんなこんなで、稲荷山を一周するのに2時間ほどかかってしまった。
想像以上のハードワークに汗ばむ首筋を、そっと春の風が撫でていく。
こんな京都もいいじゃないか。
そんな風にして自分をどうにか納得させて、僕は次の場所へ向かった。

またテキトーに行ってもどうにかなるだろう。
旅っていうのは予想を裏切る出来事が多ければ多いほど刺激に満ちたものになるんだ。
きっとどうにかなる。
きっと。
きっと。



安心な僕らは旅に出ようぜ
思い切り泣いたり笑ったりしようぜ

「ばらの花」 くるり




僕はその時、すごくすごく、安心していた。
誰にも咎められることなく、僕はそのまま歩き続けた。



第15回 京都・東京・名古屋・ぼく 終