ライター:Bro.トシマサ
てんびん座でAB型の人は優柔不断だ、なんてきいたことはないけれど、僕が優柔不断なのはそのせいだとおもう。
そんなわけで、あいまいな僕の、あいまいな考えを、あいまいにつづっていきたい。
第25回 ロンドンの空

そう、梅雨の時期だ。

と言ってもこの文章を書いている今の空はピーカンそのものなんだけど。

僕らは何回もこの梅雨という時期を過ごしてきた。

いや、結局のところ何回もこの四季の移ろいというのを過ごしているわけだ。

で、何で梅雨やら四季やらの話をしてるかというと

別に季節の話なら無難だろなんていう訳じゃなくて

「相変わらず季節に敏感でいたい」をモットーにしている僕だから

ちょいちょい季節の話をこのコラムでは挟んでいきたいと思っているからだ。

 

で、くるりつながりで話を進めれば
(うん、つながってると思う)

くるりっていうバンドは京都を舞台にした歌が多いけれど

京都に住んでいる人は他の地域に住んでいる人に比べて

くるりの歌に対してよりコミットメントが

できるのかどうなのかなぁと僕は考えたりする。

別にくるりじゃなくても構わない。

ある地域に住んでいる人がその地域を舞台にした作品を作ったとき

その地域に住んでいる人の方がその作品に対して入れ込むことができるんだろうか。

 

その考え方を日本や海外に向けてみれば、

梅雨やらなんやらを含む四季を過ごしてきた日本人が描く日本に対して

曇天模様やら天気の移り変わりの激しい気候を過ごしたイギリス人が

どの程度入れ込むことができるのだろうかと思う。

逆に言えば、僕がいくら好んでUK ロックを聴こうとも

彼らが表したい情景なんかこれっぽちもつかんでないんじゃないかと

不安になったりする。

 

まぁ、この話も僕は「コミットメント」やら「入れ込む」

といった言葉で実はごまかしているわけで、

「入れ込む」ことができればそれでいいわけじゃないのはわかってる。

ただ、その作者が抱いてる、いや作者だけに限らずこうして書いている僕とか、

普通に会話している僕らが抱いてる心象風景の違いっていうのは

確実に作品とか言葉の受け取り方に違いを及ぼすわけだから、

そこら辺はどんな風に考えたらいいのかなと思うのだ。

 

それをアカデミックに考えようとすれば、和辻哲郎の「風土」やら

ポストモダンチックなテキスト論やらを持ち出して話すんだろうけど

僕はそっちの領域に全く明るくないのでどうしようもない。

 

ただ、結局思うのは、というかそう言わざるを得なくなるんだけど、

「正しい」とか「絶対」っていうのはないんだっていう当たり障りのないことで。

つまり、京都を訪れる前に聞いたくるりの歌と、

京都を訪れた後に聞いたくるりの歌の両方があるとして、

それは両方とも「正しい」ものとして僕の中にある。

東京に来たことのない人が聞いた小沢健二と

東京で育った人が聞く小沢健二と

両方とも「正しい」ものとしてそれぞれにある。

そうとしか言いようがないと思う。

 

この梅雨を過ごした後には僕の心象風景も変わっているだろうから

この結論だって変わってるかもしれない。

UK ロックはロンドンの空を見たことのあるやつじゃないと

わかってるなんて言えないぜとか言い出しているかもしれない。

でも、「わかってる」って何なのか問われれば

また、僕はまた頭を抱えるに違いないのだ、たぶん。