ライター:Bro.トシマサ
てんびん座でAB型の人は優柔不断だ、なんてきいたことはないけれど、僕が優柔不断なのはそのせいだとおもう。
そんなわけで、あいまいな僕の、あいまいな考えを、あいまいにつづっていきたい。

第2回 大人の日

 

1月には、祝日が2つある。
言わずもがな、元日と成人の日だ。


だが、この2つの間には圧倒的な格の違いがある気がする。
「元日」
ガンジツ、響きがすでに圧巻だ。
僕らみんながこの日を心待ちにし、
この日が来るとともに気持ちを新たにする。


これに比べて、「成人の日」はどうだろう。
セイジンノヒ、あんまりピンとこない。
もう一回つぶやいてみる、セイジンノヒ、やっぱりピンとこない。
だいたい、二十歳の人しか関係がないようなものだから
あとの人からは気にかけてもらえない存在であるしかないんだろう。


ぼくもこの2つの祝日に対する態度は
世間と似たようなものだった。
元日が来れば、見境無くおめでとうございますと叫び、
成人の日が来たときには、
自分には関係がないと、そっぽを向いていた。
だいたい大人になるなんてことは一律に年齢で決めるもんじゃないと、
自分自身が大人でもこどもでもない中途半端な時期は思っていたから、なおさらだった。


そんなこんなで、また成人の日がやってきた。
今度は自分が成人となり、まさに関係のある祝日として。


そんなときに、あらためて、成人の日の存在を考えてみた。
誰にでもいい顔をふるまき、誰からも愛される「元日」と
ほとんどの人には関係がないが、
今現在のぼくには何かしらの意味を持つ「成人の日」。


こんなふうに書くとぼくの中における成人の日の存在が大きくなったようだが、
でも、よく考えるとやっぱりそうでもない気がするのだ。


そのものが誰からも愛されるとか、誰からも愛されないとかは関係なくて、
僕自身にとってどういう意味を持つかどうかしか関係がないとしても、
結局のところ、成人の日は元日の存在感には負けてしまうのかもしれない。


他人の欲しいものではなく、自分の欲しいものが欲しいのだとして
他人の欲しいものが、自分の欲しいものと同じであったならどうだろう。
こんな問いかけのある小説があったように思う。
いや、なかったかもしれない、それでもいい。


とにかく、大人っていうのは年齢で一律に決められるもんじゃない
という考えは今もそのままだ。